3.大日本印刷

 写植の仕事を少し覚えてきた頃、職場が神保町から市ヶ谷の大日本印刷の中にある分室へと変わった。そこは大日本印刷の子会社からの下請けが専門で、子会社のあるフロアの一角を借りて機械を持ち込んでいるという形だった。この子会社は大日本印刷の中で写植や版下などの分野を担当していたようで、要するに親会社である大日本印刷の下請け企業。さらにその下請けをしている我々の会社は孫請けというわけで、他にも孫請けはいくつも入っており、フロアには100台近い写植機が並んでいたと思うが、その中のかなりの部分は同じような孫請け会社のものだった。

 ところで、写植機には写研とモリサワという二つのメーカーがある(リョービもあるがシェアは小さい)。そして関東では圧倒的に写研が強く、9割のシェアを占めていると言われていた。うちの会社はその中でも珍しいモリサワの機械を使っており、仕事がまわってくるのも月刊プレイボーイやコスモポリタンなどの雑誌の中で、モリサワ書体を使う部分だった。
 こういう雑誌は多くの人が知っているので、出来上がった雑誌を開いて、この部分は自分で写植したんだと思うと、ちょっとはメジャーな仕事をしているような気分になった。しかし、大企業の組織の中に組み込まれていることは、いろいろな面で不自由であり、そこの会社の規則に従わなければならない。特に、融通の利かない分業システムの中での仕事の進め方には、耐え難いものがあった。
 例えば、入稿された原稿を写植しても、校正でほとんどが打ち直しになってしまう。原稿はほとんど編集されずに入稿され、打ちあがった写植を見て初めて編集や校正が入るからだった。だから毎回同じ部分に同じ直しが入ることもある。文章の変更も多い。雑誌の対談など、最初の原稿とはほとんど表現や内容が変わってしまったりする。対談なのに…と思ったものだ。そうやって削られたり加えられたりすると、写植は対応が難しい。印画紙を切って手で移動させなければならないし、変更が多ければ全部打ち直すことになる。こんなやり方が分業システムとして出来上がっているので、何を言っても変わることはなかった。無駄な労力を無駄と分かりながら続けなければならない。下請けの立場は、やりきれないものだった。

 写植の機械は、この頃から画面付のものが出始めた。歯送りや行替えを自動でやってくれるものは以前から出ていたが、新しい機械は文字を画面で確認できるようになり、文字の詰め打ちに威力を発揮した。それまでの写植機では文字が見えないため、雑誌の見出しのようにギリギリに文字を詰めなければならない時は、1回印字して現像したものを見ながら文字の間隔を計り、それを元に歯送りを決めてもう一度印字し直すやり方か、または、手で印画紙を切り貼りして文字を詰めていくというやり方だった。それが文字を画面で見ながら1回で印字できるというのだから画期的だった。
 また、この機械では文字が回転できるようになった。今までは平体や斜体などの変形しかかけられなかったが、新しいレンズは文字そのものを回転できるため、円に沿って文字を丸く印字することや、斜体のライン揃えができるようになった。すごい機械ではあったが、1台600万とか700万円もするような高価な機械だったと思う。

 また、この頃から電算写植というものが始まり、フロアの一角に別に区切られた部屋で、20〜30人くらいの女性が電算のキーボードで入力していたのを覚えている。電算といっても、まだフロッピーは使われておらず、紙テープに穴を開けるという記録方式であり、それを現像機にかけていた。



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