3.大日本印刷写植の仕事を少し覚えてきた頃、職場が神保町から市ヶ谷の大日本印刷の中にある分室へと変わった。そこは大日本印刷の子会社からの下請けが専門で、子会社のあるフロアの一角を借りて機械を持ち込んでいるという形だった。この子会社は大日本印刷の中で写植や版下などの分野を担当していたようで、要するに親会社である大日本印刷の下請け企業。さらにその下請けをしている我々の会社は孫請けというわけで、他にも孫請けはいくつも入っており、フロアには100台近い写植機が並んでいたと思うが、その中のかなりの部分は同じような孫請け会社のものだった。 ところで、写植機には写研とモリサワという二つのメーカーがある(リョービもあるがシェアは小さい)。そして関東では圧倒的に写研が強く、9割のシェアを占めていると言われていた。うちの会社はその中でも珍しいモリサワの機械を使っており、仕事がまわってくるのも月刊プレイボーイやコスモポリタンなどの雑誌の中で、モリサワ書体を使う部分だった。 写植の機械は、この頃から画面付のものが出始めた。歯送りや行替えを自動でやってくれるものは以前から出ていたが、新しい機械は文字を画面で確認できるようになり、文字の詰め打ちに威力を発揮した。それまでの写植機では文字が見えないため、雑誌の見出しのようにギリギリに文字を詰めなければならない時は、1回印字して現像したものを見ながら文字の間隔を計り、それを元に歯送りを決めてもう一度印字し直すやり方か、または、手で印画紙を切り貼りして文字を詰めていくというやり方だった。それが文字を画面で見ながら1回で印字できるというのだから画期的だった。 また、この頃から電算写植というものが始まり、フロアの一角に別に区切られた部屋で、20〜30人くらいの女性が電算のキーボードで入力していたのを覚えている。電算といっても、まだフロッピーは使われておらず、紙テープに穴を開けるという記録方式であり、それを現像機にかけていた。 |